今井兼次の建築と自邸

今回は、今井兼次の建築と自邸を紹介します。
彼、今井兼次は、1895年に東京市赤坂区(現・東京都港区)青山権田原町に生まれ、1919年に早稲田大学理工学部建築学科を卒業した。その後、大学の助手として残り、翌年助教授に就任した。
1925年に、早稲田大学図書館(現・早稲田大学会津八一記念博物館)(下の写真)が完成した。この建物は、同大学の内籐多仲教授が中心となり耐震的な新図書館の建設計画として始まり、構造設計を内籐多仲が、意匠設計を今井兼次が担当した。

今井兼次(早稲田図書館)Ⅱ.jpg

この建物は、スウェーデンの建築家ラグナール・エストベリーの「ストックホルム市庁舎」の建設の精神、つまり大勢の芸術家、職人達がエストベリーのもとに参画して市民への捧げものとして建立したヒューマンな精神を範として設計された。それを表したエピソードが、玄関大広間にある六本の漆喰塗の白亜の円柱の仕上げにある。それは、これらの柱を仕上げる左官職人の心魂を傾けて制作する態度が、これらの柱に刻み込まれていることをを感じるために、最後の柱一本を彼の家族に見守られながら仕上げたとことである。
1926年には、以前に紹介した「内籐多仲の自邸」の設計に、「木午七郎」とともに参画している。
1926年から1927年にかけて、ヨーロッパの地下鉄駅を研究するために、ソヴェイト、北欧、ヨーロッパ諸国を廻った。その時に、バウハウスなどのモダニズムの建築の他に、「アントニオ・ガウディ」、「ルドルフ・シュタイナー」などの建築にも触れて帰国した。
帰国後、これらの建築を日本に紹介し、特にガウディを紹介した草分け的存在になった。
1928年には、早稲田大学の教授で小説家で有名な坪内逍遥の発案・計画で建設された博物館がある。この博物館の設計は、桐山均一、江口義雄、そして今井兼次の共作である。それが、「早稲田大学坪内博士演劇記念館」(下の写真)である。

今井兼次(坪井博士記念館)Ⅱ.jpg

この建物は、イギリスロンドンの「フォーチュン座」を模して、建物前面で上演出来る様に設計されていて、正面中央のハーフティンバーが印象的な建物である。
1928年には、帝国美術学院(現・武蔵野美術学校)の設立に関わった。
1930年には、東京世田谷区下北沢に「自邸」(下の写真)を完成させた。彼は、自邸の「外観については多少日本風の要素を洋風の取り扱い方に取り入れることに苦心した」と書いている。
今井兼次(自邸)外観Ⅱ.jpg
そして、「特に、瓦を淡黒色にしたことは比較的成功した様に思う」とも書いている。さらに配置には、すでに廻りに住宅が立ち並び最後に自邸を建てたので近隣に対する配慮で苦労をしたようである。(下の図)
今井兼次(自邸)図面.jpg
内部に関しても、「応接室には建具のドアの色、棚などに相当色彩を用いてみた」とひとつの試みであることが、書かれているが、今回はモノクロの写真ためにその色彩を窺い知ることが出来ないのが残念である。(下の写真)
今井兼次(自邸)内観.jpg
そして、「家庭生活を考えると、プランも細かくなり勝ちであるが」、これには一長一短があると反省のように書いている。

1935年に多摩美術学校(現・多摩美術学校)の設立に関わり、講師を務めた。
1936年に、彼の母校である日本中学校(現・日本学園中学校・高等学校)の現在地(東京都世田谷区)へに移転に伴って建築した「日本学園本館(現一号館)」(下の写真)が完成した。

今井兼次(日本学園).jpg

現在は、登録有形文化財に指定されている。
1937年に、早稲田大学教授に就任する。1948年には、妻が亡くなり、カトリックの洗礼を受け信者になる。
1958年には、長野県安曇野市の「碌山美術館」(下の写真)の設計、完成した。

今井兼次(碌山美術館)Ⅱ.jpg

この美術館は、日本近代彫刻の先駆者である「萩原碌山」の作品展示ために造られたが、この建物を建設にあたっての構成要素として、「碌山がキリスト教の影響を受け、成長した精神の象徴であること」、「明治時代の作品を収蔵するのにふさわしい明治建築の構成をもつこと」、「信州の厳しい気侯に耐えられる北欧風の建物であること」の3つの要素を立てて、その結果教会様式の建築とする設計にした。
1962年には、長崎県長崎市に「日本二十六聖人殉教記念館」(下の写真)を完成させた。

今井兼次(殉教記念館)Ⅱ.jpg

上の写真の右側の教会と左側の記念館と記念碑の3つで一体の建築の構成で「日本二十六聖人殉教記念館」となっている。
この「日本二十六聖人」とは、1597年に、豊臣秀吉がキリスト教弾圧で、26人の信者を処刑したとことから始まり、幕末の1862年に、ローマ教皇が聖人に列したことから、彼らは「日本二十六聖人」と呼ばれるようになった。そして、長崎が開港して外人居留地が出来て外国人が滞在し、その滞在する外国人のために、1864年に大浦地区に教会「大浦天主堂」(下の写真)を建てた。この「大浦天主堂」の正式名は、「日本二十六聖人殉教天主堂」という。

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そして、戦後になって、処刑になった26人の信者たちの最後の地、西坂に建てられたのが、今井が設計した「記念館」である。そして、「大浦天主堂」の正式名と区別するために、この教会を「日本二十六聖人殉教記念聖堂聖フェリッポ教会」(下の写真)と名付けた。

今井兼次(殉教記念館).jpg

この教会のシンボルともいえる双塔を見ると「アントニオ・ガウディ」の影響を受けているのがよく分かるが、その他の部分においては「ル・コルヴュジェ」の影響を受けていると、建築家の藤森照信は指摘している。具体的には、コンクリートの打ち放し、立面の縦ルーバー、ピロティ、そして壁面に自由に穿たれた開口部は、形状が違うがロンシャンの教会を思わせるのである。
「日本二十六聖人記念館」(下の写真)は、キリスト教関連の歴史資料や美術品を展示する施設で、「記念碑」の背後に建っている。

今井兼次(殉教記念館)Ⅲ-1.jpg

その「記念碑」には、26聖人のレリーフを掲げられている。記念碑の裏には、「屋外展示室」の前庭が広がっていて、自然石を用いたモザイク画「長崎の道」があり、記念碑と記念館に架かる細長い屋根があり、「殉教の橋」と名付けられた屋根があり、それを支える「殉教の柱」と名付けれて柱がある。
1965年に、早稲田大学名誉教授に、そして、関東学院大学の教授に就任した。
1966年には、佐賀県に「佐賀大隈記念館」(下の写真)を完成させた。この建物は、大隈重信侯の生誕125周年を記念して建てられた建物で、1967年に建設委員会から佐賀市に寄贈されてオープンした。
今井兼次(大隈記念館)-1.jpg

この建物は、ヨーロパで感銘を受けた神秘思想家のルドルフ・シュタイナーの「第二ゲーテアヌム」(下の写真)に影響されている。シュタイナー自身が模型を制作し、現場で直接指導し完成した建物である。

今井兼次(シュタイナー)-1.jpg

そして、「佐賀大隈記念館」は、表現主義の作風がよく表れている建物である。モダニズム建築からは一線を置き、建築の職人の手の技を残す作品をつくった。
1987年に亡くなられた。

今回は、「Wikipedia」、「建築マップ長崎県と佐賀県」などを参考に紹介しました。

今回は、ここまで!!


☆今井兼次の本

☆ルドルフ・シュタイナーの本


☆アントニオ・ガウディの本

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