渡辺節の建築Ⅱ

彼は、現在の東京都千代田区に1884年に生まれ。旧制二高を経て、「東京帝国大学建築学科」を卒業して、「鉄道院」に入り、京都駅などを設計した。1916年、独立して大阪に設計事務所を開設した。1920年から1921年には欧米を視察した。

今回は、1934年以降の彼の作品を紹介します。前半の作品は、「渡辺節の建築Ⅰ」で紹介しています。

1934年、神戸に建てられたのが「神戸証券取引所」が完成した。1967年に「証券取引所」が廃止された後は、朝日新聞社神戸支局、映画館「朝日会館」などの「朝日ビル」としてして使用されていました。

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上の写真の左の高層ビルは、1994年に竣工した「神戸朝日ビル」では、低層部に「旧神戸証券取引所」の外観を復元しています。
1936年に旧住吉村に、「乾汽船」の二代目社長で、乾家の4代目「乾新兵衛(新治)」の邸宅を設計したのが、「乾邸」である。しかし、5代目当主乾豊彦の死去によって、この建物と土地は、相続税として国に物納した。

2009年に「神戸市土地開発」で購入し、保存修復工事を経て「旧乾邸」(下の写真)として保存、現在神戸市指定文化財となっている。

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新築当時は、洋館、和館が建てられていたが、1995年の阪神・淡路大震災で和館が全壊した。 南面の外壁(上の上の写真)は、RC造に石張りで、中央の張り出し部分はベイ・ウインドー風になっている。その右側にある応接室(下の写真)は、高い天井と南側の大きな窓によって、室内空間は明るく照らされている。

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この部屋は、イギリスの古典的な様式のモチーフが随所に用いられていて、壮麗な室内空間を表している。

1939年に、東京都千代田区有楽町に設計された「糖業会館」が完成した。


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このビルに入っていた「ニッポン放送」が、手狭になったのを機に建て替えの提案を行い、その提案が了承され2001年から旧建物の解体・撤去に入り、2004年に「糖業会館・ニッポン放送ビル」として生まれ変わった。

1958年に、兵庫県三木市にある「廣野ゴルフ倶楽部」の改築工事が完了した。


渡辺節(広野ゴルフ倶楽部)複合.jpg
このゴルフ場は、1932年にセント・アンドルーズのイーデンコース設計者である「チャールズ・ヒュー・アリソン」によってコース設計がなされ、「渡辺節」によって倶楽部ハウスが設計されたが、1957年に焼失した。「乾汽船」の乾家の5代目乾豊彦の意向によって翌年に再建され、現在に至っている。

1962年、先に紹介した「綿業会館」の横に、「綿業会館新館」(下の写真)として増築をした。


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左奥に最初に建てた「綿業会館」で、その隣に新館を増築したが、近代建築を思い起させる連想窓になっていて旧館とは、外観の趣が違っているのは、「村野藤吾」の影響も出て来ているのであろうか。
「 渡辺節」は、1967年に亡くなる前の年まで大阪建築士会会長を務めたりして、関西建築界に多大な貢献をしきた重鎮であった。
今回は、「wikipedia」、「INAX REPORT」、「渡辺建築事務所H・P」、「清水建設H・P」、「大林組H・P」他を参考に紹介しました。

☆参考

ぼくらの近代建築デラックス!

ぼくらの近代建築デラックス! (文春文庫)

関西のモダニズム建築: 1920年代~60年代、空間にあらわれた合理・抽象・改革

posted by Bokusai at 13:32Comment(0)建築

吉阪隆正の建築Ⅱ

1962年には、東京都千代田区に「アテネ・フランセ」が完成した。

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「アテネ・フランセ」は、神田駿河台の崖地に建つ外国語学校の校舎です。外観の強烈な印象を与える紫を基調とした色彩は、彼がアルゼンチンで見たアンデスの夕日の色が発想の源となっている。コンクリート打放しが主流の当時では、塗装仕上げとカラフルな色彩は異色である。
1963年に、階段室のタワー部分の奥に増築棟が完成した。

1964年に、富山県立山町に「富山県立立山荘」が完成した。

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周辺環境や景観に配慮した流線形のデザインで、動植物の宝庫である弥陀ヶ原に立地している。1998年にリニューアルオープンしている。

1965年には、東京都八王子市に「大学セミナーハウス」が完成した。

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大学紛争の激しかった1960年代に、「国際基督教大学」の職員だった「飯田宗一郎」が、「東京大学」、「早稲田大学」、「慶應義塾大学」、「一橋大学」、「津田塾大学」など都内の主要大学の学長を説いて大学連合組織の共同運営という形で創設した。2003年を最後にその後開催されていないが、それに代わって学生や大学の教職員、社会人を対象とした様々な大学セミナーハウス主催のセミナーが開催されている。

1965年には、長野県立科町に「山岳アルコウ会ヒュッテ」が完成した。

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「雪の家」のイヌイットのイグルーにヒントを得て柱のない円形小屋を設計したのがこの建物である。現在は、「対山荘」となっている。

1965年には、長野県千曲市に「更埴市庁舎」が完成した。

更埴市庁舎2.jpg

この建物は、吉阪隆正氏のU研究室に在籍した「滝沢健児」氏が設計している。

1969年には、長野県野沢温泉村に「野沢温泉ロッジ」が完成した。

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このロッヂは、スキーの技術を学ぶための施設として建てられ使用されて来たが、新しいオーナーがリノベーションをして、2017年に新規オープンした。

1969年には、新潟県妙高市に「黒沢池ヒュッテ」が完成した。

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このヒュッテは、8本の太い丸太を円錐状に配置し、その丸太柱群がドームを支える構造となっていて、宿泊ゾーンの2階・3階レベルの床はすり鉢状に緩やかな傾斜で放射状になっている。光は頂部のトップライトから取り込んでいる。

1975年に、富山県立山町に「ニューフサジ」が完成した。

ニューフサジ2.jpg

1964年に完成した、「富山県立立山荘」のような稜線にそってデザインされた流線型の建物である。現在は、「雷鳥沢ヒュッテ」の名称でになっている。

「吉阪隆正」は、少年期を父の転勤で過ごしたジュネーブでスイス・アルプスの登山を経験し、早稲田大学では山岳部に入部し、日本山岳会理事も務めた関係で、ロッジ、ヒュッテの建物が多いのが特徴である。

今回は、「Wikipedia」他を参考に紹介しました。

☆参考
    ○大学セミナーハウス     ○吉阪隆正とル・コルビュジエ   ○建築を目指して

  
               
posted by Bokusai at 04:44Comment(0)建築

白井晟一の建築Ⅳ

今回が、後半最後の「白井晟一」の建築作品の紹介になります。

1974年に、東京都港区に「ノアビル」完成した。彼の代表作品でもある。

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「ノアビル」は、黒い円筒形の特徴的な外観を持つ建物は、外観表面は硫酸銅で黒く処理されたパネルで覆われ、円筒の土台部分はレンガ造の仕上げになっている。

1974年には、茨城県日立市の「茨城キリスト大学」構内に建てられた「サンタ・キアラ館」が完成した。

サンタキアラ館.jpg

「サンタ・キアラ館」は、「ノアビル」の土台部分同様のレンガ造の仕上げである。ここには、彼の作品「サン・セバスチャン館」もある。

1978年に、東京都中野区に「杉浦邸」が完成した。

杉浦邸3.jpg


「杉浦邸」は、息子の「白井昱磨」がRC構造の2階建てとして設計していたが、「昱磨」が海外出張中に設計をやり直して、木造の2階建てに設計変更をしてしまったいきさつがある。

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「杉浦邸」の中庭の外観であるが、施主である杉浦氏が60歳の時に建てられ亡くなる99歳まで住み続けられてきたが、転売されて現存しなくなった。

1980年に、東京都渋谷区に「渋谷区立松濤美術館」が完成した。

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「松濤美術館」は、企画展を中心に渋谷区に関係する公募展、絵画展の他に、音楽会や美術教室なども行われている。外観の紅味を帯びた韓国産の花崗岩(紅雲石)とブロンズ製のグリルと化粧垂木、銅板葺きの屋根で構成されている。

1981年には、静岡県駿河区に「芹沢銈介美術館」が完成した。
航空写真の左側の建物が「石水館」で、屋根で覆われた中央部分が「「芹沢銈介美術館」である。(トリップアドバイザーより)


芹沢銈介美術館2.jpg

中央にある噴水池が中庭で、それに向かって歩いて突き当り左側に入り口が見える。

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外壁がすべて石積み仕上げで、屋根が銅板葺の建物は、「白井晟一」の集大成のような空間の建物である。

今回は、「Wikipedia」他を参考に紹介しました。

☆参考

 ○白井晟一精神と空間   ○白井晟一の手と目   ○白井晟一(現代建築家)

        







posted by Bokusai at 17:00Comment(0)建築