白井晟一の建築Ⅱ

1953年以降の「白井晟一」の建築作品を紹介します。

1956年に、群馬県安中市に「松井田町役場」が完成した。

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戦後の建築界で巻き起こった「伝統論争」の引き金となった建物で、「畑の中のパルテノン」と呼ばれ、山間部の町に建設された役場としては、デザイン的にも鉄筋コンクリート造の構造的にも珍しい建物であった。1992年に、「新庁舎」が完成したことで、移転した後は、「公民館」として使用されて「文化財資料室」として町内の遺跡などからの「出土遺物」を展示していた。現在は、耐震強度上の問題から閉館している。

1957年に、秋田県大仙市に「奥田邸」が完成した。

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「奥田邸」は、延宝年間(1673~1681)に創業し、奥羽山系の良質な水、多雪寒冷な気候、良質米を使用して、協和の地酒として銘酒「千代緑」を作り続けている「奥田酒造」の店舗兼住宅である。この建物は、国の「有形文化財」に指定されている。なだらかな切妻屋根と軒深く奥まった壁のファサードは、これまでの特有のデザインである。

1958年に、東京都台東区に「善照寺本堂」が完成した。

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「善照寺」は、銅板噴きの切妻屋根の高床式の建物で、大きく張り出した軒、片持ちスラブの基壇と浮いたような階段によって、閉鎖的な外観に軽快で浮遊感を生み出してたファサードのデザインである。

1959年に、秋田県湯沢市に「四同舎」が完成した。


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「四同舎」は、黒塗りの鋼板製の柱型と素朴な風合いの白いタイル、最小限の開口部と量感のある屋根のファサードで、2階会議室のバルコニーに面する開口部は大きく室内を明るく照らす彼特有のデザインである。竣工当初は、「湯沢酒造」関係者の結婚式の会場として使われたが、数年前に譲渡して所有者は変わっている。

1959年に、東京都世田谷区に「増田夫妻のアトリエ」が完成した。

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「増田夫妻のアトリエ」は、ボックス型の形態で、軒の出は大きく、奥まった白い外壁に大きな開口部の木造住宅であるが、この建物には玄関スペースと呼べるものがなく、テラスからダイニングルームに直接入るようにアプローチされた狭小住宅である。

1963年に、長崎県長崎市に「親和銀行大波止支店」が完成した。

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「親和銀行大波止支店」は、石張りの曲面をした外壁に、アーチ型の大きな開口部がついたファサードの前に、水平ラインを強調したような庇によって、建物を分断したようなデザインの建物である。

今回は、「Wikipedia」他を参考に紹介しました。

☆参考

○白井晟一        ○白井晟一の原爆堂    ○白井晟一の手と目

        




posted by Bokusai at 10:30Comment(0)建築

白井晟一の建築Ⅰ

「白井晟一」は、1905年に、京都の銅板職人(後に呉服行商に転じた)の家に生まれ、12歳で父と死別し、姉が嫁いだ画家「近藤浩一路」のもとに身を寄せて、東京に住んだ。1918年に、「青山学院中等部」に入学するが、1923年の関東大震災で義兄の家が全焼したために、静岡へ、そして1924年に京都へと転居する。その春に「京都高等工芸学校図案科」(現在の京都工芸繊維大学造形科学科)に入学し、1928年に卒業した。学生時代に”哲学者戸坂潤”に兄事し、さらに”美学者深田康賛”に私淑した。そして、シベリヤ経由で渡欧して「ベルリン大学哲学科」に入学した。
1933年に帰国し、1938年に義兄の「近藤浩一路邸」(現存しない)を完成させ、同じ年に長野県軽井沢町に「歓帰荘」(下の写真)を完成させた。

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現存する建物の中で彼が設計した一番古い建物である。その後、第二次世界大戦が勃発して彼は、秋田に疎開した。その縁で秋田に彼の作品が多数残っている。

1951年に、秋田県湯沢市に「秋ノ宮村役場」が完成した。

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この「秋ノ宮村役場」の建物は、後に「稲森温泉」に移転されて、「稲住温泉友誼館」として使用された。

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この建物は、卓球場に改装されてプロ卓球選手「福原愛」の練習拠点となったことがある。
1953年に、同じ敷地に「稲住温泉浮雲」が完成した。

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「浮雲」の建物の1階に会議室”浮雲”がある。2階は宴会場となっている。彼が、「ベルリン大学哲学科」の学生の時に、作家の「林芙美子」と恋愛関係にあった関係からか「浮雲」の名前がついている。
1952年に、東京都中野区に「アトリエ№5」が完成した。

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「アトリエ№5」は、元々画家のアトリエとして設計されたが、現在は白井晟一研究所として使われています。

1953年には、東京都世田谷区に「試作小住宅」が完成した。

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秋田県湯沢市の医者「渡部均」氏(故人)の依頼によって、東京で学ぶ御子息の拠点として建てられた。15坪の木造平屋建住宅である。2006年に「渡部三喜」氏(渡部均氏のご子息で、この建物の最初の住人)により、秋田県湯沢市に移築(一部増築)された。湯沢では、「顧空庵」と命名された。

今回は、「Wikipedia」、「SD01 特集白井晟一」他を参考に紹介しました。1953年以降の作品は、次回に紹介します。

☆参考

○無窓      ○白井晟一建築を語る  ○白井晟一の手と目

     







posted by Bokusai at 19:00Comment(0)建築

吉阪隆正の建築Ⅰ

「吉阪隆正」は、1917年に東京都文京区(当時は東京市小石川区)に生まれた。1923年に、父の勤務先のスイスから一家で帰国して、「暁星小学校」に入学したが、小学校6年生の終わりに父の転勤でジュネーヴに移住した。中学3年のとき単身帰国、1年間の試験勉強を経て、「早稲田高等学院」に進んだ。1941年に「早稲田大学理工学部建築学科」を卒業し、「早稲田大学大学院」修了後、同校の助手として働いた。
1950年に、戦後「第1回フランス政府給付留学生」として渡仏し、「早稲田大学」の教員のまま1952年まで「ル・コルビュジエ」のアトリエに勤務した。
帰国した後の1953年に、大学構内に「吉阪研究室」(後にU研究室へ改称)を設立し、建築設計活動を開始した。

1955年に、東京都新宿区に「自邸」が完成した。

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彼の著書『ある住居』に、「自宅」について「人工の上に住む私の生活は何にも邪魔もされないで静かである。…大地は再び自然の姿を取戻した。その上に私たちの人工の庭が出来た。そればかりか、屋根の上にもう一つの庭がある。…200坪足らずの敷地は、200坪以上の庭を獲得した。」と記述している。しかし、この「自邸」は、1982年に解体されて現存しない。

1956年に、兵庫県西宮市に「浦邸」が完成した。

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「ル・コルビュジエ」の影響を受けた彼は、「自邸」でも採用した「ピロティ」をここではさらに発展させて採用している。四方に建っている柱とスラブのデザインは、後の「菊竹清訓」の「スカイハウス」に影響を与えている。

1956年に、イタリア、ヴェネツィアに「ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館」が完成した。

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「ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館」でも「ピロティ」と言うより「高床式」に1階の床を支えたデザインの建物である。日本人建築家の設計では、初めてヨーロッパに建てられた恒久的な建築物である。

1957年に、東京都渋谷区に「ヴィラ・クゥクゥ」が完成した。

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ヴィラ・クゥクゥ」は、鉄筋コンクリート造打放しの外観で、正面壁にレリーフが刻まれている。このレリーフは、彫刻家「坂上政克」のデザインである。建物の色ガラスを嵌め込んだ小さな開口部は、コルビジェの「ロンシャンの教会堂」を彷彿とさせ、屋上のトップライトは、マルセイユの「ユニテ・ダビタシオン」を彷彿とさせる。

1957年に、「早稲田大学赤道アフリカ横断遠征隊」を組織して「アフリカ横断一万キロ」を作成した。
1959年に、「早稲田大学教授」に就く。

1961年に、島根県江津市に「江津市役所」が完成した。

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「江津市役所」の当初の外観は、鉄筋コンクリートの梁(オレンジ色)の間に、全体に開口部があり水平を強調していた。しかし、いつ解消したか不明ですが、カーテンウォールで全体が覆われて、水平を強調しているが弱い感じがするが、外観としては、すっきりとしたデザインになっている。この建物は、60年近く経って2017年の「熊本地震」の影響もあって解体・新築する話もあったが、現在は耐震補強工事を行って別用途の使用を考え、新市庁舎を別な所に建設することで動いている。

1962年以降の建築の紹介は、「吉阪隆正の建築Ⅱ」で紹介します。

今回は、「Wikipedia」他を参考に紹介しました。

☆参考

○吉阪隆正の迷宮   ○ヴェネツィア・     ○吉阪隆正と   
               ビエンナーレ日本館     ル・コルビュジエ

     



posted by Bokusai at 05:00Comment(0)建築