白井晟一の建築Ⅰ

「白井晟一」は、1905年に、京都の銅板職人(後に呉服行商に転じた)の家に生まれ、12歳で父と死別し、姉が嫁いだ画家「近藤浩一路」のもとに身を寄せて、東京に住んだ。1918年に、「青山学院中等部」に入学するが、1923年の関東大震災で義兄の家が全焼したために、静岡へ、そして1924年に京都へと転居する。その春に「京都高等工芸学校図案科」(現在の京都工芸繊維大学造形科学科)に入学し、1928年に卒業した。学生時代に”哲学者戸坂潤”に兄事し、さらに”美学者深田康賛”に私淑した。そして、シベリヤ経由で渡欧して「ベルリン大学哲学科」に入学した。
1933年に帰国し、1938年に義兄の「近藤浩一路邸」(現存しない)を完成させ、同じ年に長野県軽井沢町に「歓帰荘」(下の写真)を完成させた。

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現存する建物の中で彼が設計した一番古い建物である。その後、第二次世界大戦が勃発して彼は、秋田に疎開した。その縁で秋田に彼の作品が多数残っている。

1951年に、秋田県湯沢市に「秋ノ宮村役場」が完成した。

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この「秋ノ宮村役場」の建物は、後に「稲森温泉」に移転されて、「稲住温泉友誼館」として使用された。

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この建物は、卓球場に改装されてプロ卓球選手「福原愛」の練習拠点となったことがある。
1953年に、同じ敷地に「稲住温泉浮雲」が完成した。

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「浮雲」の建物の1階に会議室”浮雲”がある。2階は宴会場となっている。彼が、「ベルリン大学哲学科」の学生の時に、作家の「林芙美子」と恋愛関係にあった関係からか「浮雲」の名前がついている。
1952年に、東京都中野区に「アトリエ№5」が完成した。

アトリエ№5.jpg

「アトリエ№5」は、元々画家のアトリエとして設計されたが、現在は白井晟一研究所として使われています。

1953年には、東京都世田谷区に「試作小住宅」が完成した。

試作小住宅.jpg

秋田県湯沢市の医者「渡部均」氏(故人)の依頼によって、東京で学ぶ御子息の拠点として建てられた。15坪の木造平屋建住宅である。2006年に「渡部三喜」氏(渡部均氏のご子息で、この建物の最初の住人)により、秋田県湯沢市に移築(一部増築)された。湯沢では、「顧空庵」と命名された。

今回は、「Wikipedia」、「SD01 特集白井晟一」他を参考に紹介しました。1953年以降の作品は、次回に紹介します。

☆参考

○無窓      ○白井晟一建築を語る  ○白井晟一の手と目

     







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