吉阪隆正の建築Ⅰ

「吉阪隆正」は、1917年に東京都文京区(当時は東京市小石川区)に生まれた。1923年に、父の勤務先のスイスから一家で帰国して、「暁星小学校」に入学したが、小学校6年生の終わりに父の転勤でジュネーヴに移住した。中学3年のとき単身帰国、1年間の試験勉強を経て、「早稲田高等学院」に進んだ。1941年に「早稲田大学理工学部建築学科」を卒業し、「早稲田大学大学院」修了後、同校の助手として働いた。
1950年に、戦後「第1回フランス政府給付留学生」として渡仏し、「早稲田大学」の教員のまま1952年まで「ル・コルビュジエ」のアトリエに勤務した。
帰国した後の1953年に、大学構内に「吉阪研究室」(後にU研究室へ改称)を設立し、建築設計活動を開始した。

1955年に、東京都新宿区に「自邸」が完成した。

自邸.jpg

彼の著書『ある住居』に、「自宅」について「人工の上に住む私の生活は何にも邪魔もされないで静かである。…大地は再び自然の姿を取戻した。その上に私たちの人工の庭が出来た。そればかりか、屋根の上にもう一つの庭がある。…200坪足らずの敷地は、200坪以上の庭を獲得した。」と記述している。しかし、この「自邸」は、1982年に解体されて現存しない。

1956年に、兵庫県西宮市に「浦邸」が完成した。

浦邸.JPG

「ル・コルビュジエ」の影響を受けた彼は、「自邸」でも採用した「ピロティ」をここではさらに発展させて採用している。四方に建っている柱とスラブのデザインは、後の「菊竹清訓」の「スカイハウス」に影響を与えている。

1956年に、イタリア、ヴェネツィアに「ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館」が完成した。

ビエンナーレ日本館.jpg

「ヴェネツィア・ビエンナーレ日本館」でも「ピロティ」と言うより「高床式」に1階の床を支えたデザインの建物である。日本人建築家の設計では、初めてヨーロッパに建てられた恒久的な建築物である。

1957年に、東京都渋谷区に「ヴィラ・クゥクゥ」が完成した。

ヴィラクウクウ2.jpg

ヴィラ・クゥクゥ」は、鉄筋コンクリート造打放しの外観で、正面壁にレリーフが刻まれている。このレリーフは、彫刻家「坂上政克」のデザインである。建物の色ガラスを嵌め込んだ小さな開口部は、コルビジェの「ロンシャンの教会堂」を彷彿とさせ、屋上のトップライトは、マルセイユの「ユニテ・ダビタシオン」を彷彿とさせる。

1957年に、「早稲田大学赤道アフリカ横断遠征隊」を組織して「アフリカ横断一万キロ」を作成した。
1959年に、「早稲田大学教授」に就く。

1961年に、島根県江津市に「江津市役所」が完成した。

江津市役所.jpg

「江津市役所」の当初の外観は、鉄筋コンクリートの梁(オレンジ色)の間に、全体に開口部があり水平を強調していた。しかし、いつ解消したか不明ですが、カーテンウォールで全体が覆われて、水平を強調しているが弱い感じがするが、外観としては、すっきりとしたデザインになっている。この建物は、60年近く経って2017年の「熊本地震」の影響もあって解体・新築する話もあったが、現在は耐震補強工事を行って別用途の使用を考え、新市庁舎を別な所に建設することで動いている。

1962年以降の建築の紹介は、「吉阪隆正の建築Ⅱ」で紹介します。

今回は、「Wikipedia」他を参考に紹介しました。

☆参考

○吉阪隆正の迷宮   ○ヴェネツィア・     ○吉阪隆正と   
               ビエンナーレ日本館     ル・コルビュジエ

     



この記事へのコメント