彼は、1931年大分市に生まれ、1954年東京大学工学部建築学科を卒業し、丹下健三研究室で黒川紀章らと
今回初めに紹介する住宅は、1957年に高校の後輩、美術家の吉村益信に頼まれて設計したアトリエ兼住居です。吉村が、「新宿ホワイトハウス」(下の図面)と名付けた。
次に紹介するの住宅は、1964年に大分市府内町に設計し建てた「N邸(中山邸)」(下の図)です。「東京計画1960」に関わる。
1961年に東京大学数物系大学院建築学博士家庭を修了し、1963年に、丹下健三研究室を退職して、磯崎新アトリエを設立した。
1961年に東京大学数物系大学院建築学博士家庭を修了し、1963年に、丹下健三研究室を退職して、磯崎新アトリエを設立した。
今回初めに紹介する住宅は、1957年に高校の後輩、美術家の吉村益信に頼まれて設計したアトリエ兼住居です。吉村が、「新宿ホワイトハウス」(下の図面)と名付けた。
この建物は、吉村益信が申請から大工探しまで自力で建てたが、吉村曰く、磯崎の設計図に忠実につくったと言っている。その後、増築も行っている。
磯崎曰く、当初は壁が板張りであったが、準防火地域のためにモルタル塗りになったのかもしれない、、屋根もフラットであったが、木造なので屋根勾配が必要で変更されたのでしょうと言っている。(下の写真)

この家は、磯崎が「ル・コルヴュジェのシトロアン住宅」や「増沢洵の最小限住宅」の影響受けて、モダニズム建築を目指して設計した建物である。そのために、アトリエ部分が吹抜けになっている。(下の写真)磯崎曰く、当初は壁が板張りであったが、準防火地域のためにモルタル塗りになったのかもしれない、、屋根もフラットであったが、木造なので屋根勾配が必要で変更されたのでしょうと言っている。(下の写真)

この建物の3間×3間の「九間」の大きさは、吉村の要望によるもので、居候していた国分寺の「児島善三郎邸(設計遠藤新)」が、3間×3間であった。
1962年に、吉村益信は、渡米のためにこの家を売却して、住んだのが画家の宮田晨哉である。
そして、現在は、当初のオリジナルを大事にしながら改装を行って、2013年から「カフェアリエ」として使用されている。
そして、現在は、当初のオリジナルを大事にしながら改装を行って、2013年から「カフェアリエ」として使用されている。



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