茶室その3(古田織部の茶室)

今回は、「千利休」の「七哲」のひとり「古田織部」の茶室を紹介します。

※「古田織部」は、本名は「古田重然」であり、1543年に、美濃国本巣郡の山口城主「古田重安」の弟「古田重定」の子として生まれ、、後に伯父「古田重安」の養子となった。1567年に「織田信長」の美濃進駐と共にその「信長」の家臣として仕え、1576年には、山城国乙訓郡上久世荘の代官となった。「信長」死後は、「秀吉」に仕え、1585年に「秀吉」が関白になると、「重然」は、功績を賞され従五位下織部助に任ぜられた。
1582年頃に、「千利休」に弟子入りしたとみられる。1591年に、「秀吉」による「利休」追放で、「古田重然」と「細川忠興」のみが「利休」を見送った。

1、「燕庵」

「燕庵」は、現在京都市下京区の「薮内家」にある。「古田織部」が、大阪の陣に出征するおり、義弟にあたる「藪内家初代剣仲」に与えた茶室と伝えられ、2代「真翁」は、「西本願寺」の茶道師家に迎えられ門前に屋敷を移した時に、「剣仲」屋敷の茶室も移された。その時に茶室を「燕庵」と名づけられた。1864年に兵火によって「藪内家」が、延焼し「燕庵」も失われた。そのため、摂津有馬の「武田儀右衛門」が、忠実に再現した茶室を1867年に移築したのが、現在の「燕庵」である。

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「燕庵」は、茅葺き入母屋造で、南東隅の土間庇に面して躙口をあけている。

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「燕庵」は、茅葺屋根の草庵茶室であり、書院書院様式を取り入れながら、貴人を迎える形式をそなえている。

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三畳の客座を挟んで点前座と相伴席を配している。客座との境に二枚襖を隔てて相伴席を付設した点に「燕庵」の特徴である。「燕庵」は、「利休」の開口部の少ない茶室と違い、窓が多いのが特色のひとつであり、点前座勝手付きの色紙窓以下全部で10窓を数える。

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墨蹟窓に花入れの釘を打つこと、雲雀棚とよばれる上棚の長い釣棚の形式などの「織部」の作意を伝えている。

2、八窓庵(含翆亭)

「八窓庵」は、奈良の「奈良公園」内にある「奈良国立博物館」の中庭にある。「八窓庵」は、もとは「興福寺」の「大乗院」庭内にあった茶室で、「含翠亭」ともいい、江戸時代中期に建てられた。「古田織部」好みの「多窓式茶室」として有名で、この茶室と「興福寺」塔頭「慈眼院」の「六窓庵 」(現所在東京国立博物館)、「東大寺」塔頭「四聖坊」の「隠岐録」(東京へ移建の後、戦災で消失)と合わせて「大和の三茶室」といわれた。
「八窓庵」は、地元に永久保存されることを望む奈良在住の篤志家数名の努力によって当時の「帝国奈良博物館」へ献納されたもので、1892年に移築された。

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様式は、四畳台目下座床で草庵風の入母屋造り茅葺で、天井は床前から点前座にかけて蒲天井とし、残りは化粧屋根裏になっている。

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「千利休」の茶室と異なり、違い窓が多くあり、茶室内部から8つの窓が見えるところから「八窓庵」と呼ばれている。

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「利休」の「侘び茶」の景観を抑え、内面の美を追求した狭い茶室に比べ、「織部」は視覚的な美を追及をし、窓を多く設けて暗くて陰気な雰囲気を解消した茶室を求めた。

今回は、「Wikipedia」、「藪内の茶」、「奈良博物館」他を参考に紹介しました。

☆参考


○織部も親しんだ茶の魅力     ○古田織部の世界        ○織部展(400周年忌)


             





posted by Bokusai at 14:30Comment(0)茶室