茶室その1(茶室と茶の湯)

「茶室」とは


「茶室」とは、「茶の湯」及び「茶道」における、茶事の主催者が客を招き、茶を出してもてなすための場である。厳密な「茶室」とは、「千利休」が確立した空間・建物をさすのであろうが、ここでは、「南浦文集」に「茶室」の語が初出とあることから、「茶の湯」とその後に確立した「茶道」の両方のこととして扱いました。この「茶室」の語が使用されるようになったのは、近世末期以降のことで、それまでは、「数寄屋」、「数奇屋」、「小座敷」、「茶湯座敷」などと呼ばれていた。又「囲い」という呼称もあった。

この「茶室」と言われるものには、「草庵風」のものと「書院風」のものがありますが、一般的に、「茶室」と言えば「草庵風」のものを指すことが多い。禅宗の「方丈」から出た「四畳半」を標準として、それより狭いものを「小間の茶室」といい、広いものを「広間の茶室」というようである。

千利休が、飛躍的な改革を試み、わび茶しかできない、文字通り「草庵風な茶室」を、二畳という小さい空間に結実させたのが、京都山崎の「妙喜庵」の「待庵」に見ることができます。


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「茶の湯」と「茶道」とは、


千利休は、「茶の湯」とは、「ただ湯をわかし茶を点てて、のむばかりなることと知るべし」と言ったそうである。

裏千家の「千宗室」は、

「茶の湯」とは、「一碗のお茶をまず自分が楽しみ、そしてその一碗をお人と分かち合う一期一会の機会をもつこと」であり、「茶道」とは、「茶の湯を楽しむ一人ひとりが立ち止まって自分の歩んできた道を振り返った際に、その道が利休居士に続いて いるということを確認すること」であると書かれている。(淡交タイムズ2009年12月号巻頭言から)

このことから、「茶の湯」とは、お茶を介しての憩いのひとときを過ごすことであり、「茶道」とは、「茶の湯」通して、己を見つめ直し精進していくことではないかと推察する。しかし、「茶道」は、「千利休」以前にすでに存在していて、一説には「闘茶」から「茶道」へ発展し来て、「村田珠光」によって禅の教えを「茶道」に取り入れて「侘茶」を確立したと言われている。


室町時代の「喫茶」


日本の「喫茶」の風習は、平安時代までさかのぼる。鎌倉時代には「禅宗寺院」を中心に「喫茶の風」が広まり、室町時代には「会所」において茶がふるまわれていた。「室町殿」の「南向会所」では、主座敷の裏手に「茶湯所」という部屋があり、ここで茶を立て、座敷に運んでいた。絵巻物『慕帰絵詞』巻五には当時の会所の様子が描写されている。


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画中の座敷には、和歌の集まりと思しき会合において、くつろぎ談笑する僧俗の人々がいる。隣の部屋では、棚に多くの茶碗や茶道具が置かれ、座敷へ茶を運ぶ僧たちの姿がある。当時はこのように、遊興の場において茶がふるまわれていた。このような座敷が、後に床、棚、付書院などを伴った書院造として定式化していき、それに伴って、「書院の茶」と呼ばれる茶の文化が広まっていった。この場において茶道具や飾り物として唐物(中国渡来の茶碗、書画、道具など)が使われるように、中国文化と禅宗の影響が大きかったと思われる。

これが、15世紀後半から16世紀にかけて、「市中の山居」を志向する「草庵の茶」へと移行していく。「草庵の茶」は、15世紀に「一休宗純」に参禅した「村田珠光」から、堺の町衆である「武野紹鷗」を経て、その弟子の「千利休」に至って大成された。


「草庵の茶室」の起源


「草庵の茶室」は、室町中期に行われていた「淋汗茶の湯」や「茶接待」における「茶屋」にその始源を求めることができる。

「淋汗茶の湯」とは 汗を流す程度の軽い入浴のことで、風呂上がりの客に茶を勧めるという趣向のものである。このように、庶民的な「淋汗の茶」を背景に広まった「茶屋」は、建築的には自由な表現が試みられ、その用法も気軽な思い付きが許されたようである。例えば、公家の「万里小路邸」では黒木造、石山本願寺では竹亭と呼ばれるものであったように、自由であった。16 世紀に建てられた「万里小路邸」の「茶屋」では、丸太普請といって材料・形状も違う山から切り出したままの状態の木材(黒木)が用いられ、竹や丸太、加工しづらい木材を利用する事で、自然の趣を映していると伝わっている。

1486年に、「足利義政」の「東山殿」に建てられた「持仏堂」(現在の慈照寺東求堂)の一隅に設けられた「同仁斎」は、義政の私的な場所としての書院であるが、一方で最古の「茶室」とする見方もある。


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「慈照寺」は、「銀閣寺」で知られていて、写真左側に「銀閣」、右手前の「東求堂」、「方丈」、「庫裏」と続く。「東求堂」の一角に設けられた「同仁斎」は、四畳半の室で、北側に棚と付書院を設けるが、床は設けていない。部材墨書に「御いるりの間」とあることから、かつてはこの部屋に炉が切られ、後世の茶室に近い構成であったことが窺える。


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そこには別室の茶立所で点茶し座敷に運び込む形式から、室内に炉を切り、亭主がそこで茶を立て客にふるまう形式に推移する過程が見てとれ、これが次第に茶事専用の独立した施設としての「茶室」になっていったと推測される。

今回は、「Wikipedia」、「茶道入門」、「茶の湯こころと美」他を参考に紹介しました。



☆参考

○茶室学


○茶室露地大事典


○名茶室の工夫







posted by Bokusai at 11:15Comment(0)茶室

ロバート・ヴェンチューリの住宅建築

彼は、1925年にアメリカ、ペンシルバニア州フィラデルフィアに生まれ、「プリンストン大学」を卒業後、ローマに留学した。「エーロ・サーリネン」、「ルイス・I・カーン」に師事した後に、フィラデルフィアに建築設計事務所を構えた。1954年から1965年まで「ペンシルベニア大学」で教鞭を執った。
1963年に、ペンシルバニア州チェスナット・ヒルに、「母の家」(下の写真)を完成させた。

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正面のファサードを見ると大きな家のようであるが、内部を反映していいなく大きく造られている。彼の師匠でもある「ルイス・カーン」が、この家を見て感想ひとつ述べず無言で立ち去ったようである。「ルイス・カーン」の目指す建築ではなかった。

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裏に回ると、表のファサードより小さいのが分かる。こちらからの1階平面パースが下の図です。1階は、70近い母親のために、暖炉を中心にアンティーク家具を並べ、生活がすべて行えるように設計した。

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「世界で一番美しい名作住宅の解剖図鑑」より

「母の家」は、彼が最初に設計した建築で、結婚するまでこの家の2階に住んでいた。そして、この家は、建築全体に一貫した合理性を追求したモダニズム運動に疑問を投げかけた小さな家でもあった。彼は、モダニズム運動の旗手である「ミース・ファン・デル・ローエ」の「少ないことはより豊かである」に対して、「少ないことは退屈である」と批判した。

1965年、カルフォルニア州フィラデルフィアに「ギルド・ハウス」(下の写真)が完成した。

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「ビルド・ハウス」は、91戸の高齢者向け集合住宅である。建物外観の茶褐色のタイルと左右対称なのファサードで、ありきたりの建物のように見えますが、「反モダニズム」にあふれている。正面最上階にある大アーチと窪んだ入口の中心にある黒御影石の円柱、真っ白な玄関廻り、玄関の上バルコニー手摺に無造作に書かれたロゴ、微妙に不揃いな十字が切られた正方形の窓、5階の途中で水平に引かれた白いボーダー等、外観を構成する要素に脈絡なく唐突に置かれてるように、「少ないことは退屈だ」とさまざまな嗜好を凝らしている。
現在は、5つのアパートメントを改装して、聴覚障害者と視覚障害者の2つのユニットを設置している。新しい施設には、オフィス、ウェルネスルーム、娯楽施設などがある。

2008年に、ペンシルバニア州ウェインに「ペングブローク・ノース・コンドミニアム」(下の写真)が完成した。

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フィラデルフィアの歴史的メインラインに沿って設計された「ペンブローク・ノース」の高級マンションで、3つの建物が3階建てで、合計54ユニットある。赤レンガの外壁は、広い石の縞と大きな窓がアクセントになっているて、ヨーロッパのような雰囲気の建物である。「ペンブローク・ノース」は、フィラデルフィア地区のLEED認定に登録された最初のマルチファミリー住宅である。

今回は、「Wikipedia」、「VSBA」HP、「世界で一番美しい名作住宅の解剖図鑑」他を参考に紹介しました。

☆参考

○世界で一番美しい名作住宅の解剖図鑑(松下希和)


○住宅・インテリアの解剖図鑑(松下希和)


○建築の多様性と対立性(ロバート・ヴェンチューリ)


○ヴェンチューリ&ローチ



posted by Bokusai at 15:00Comment(0)住宅