茶室その4(小堀遠州の茶室Ⅰ)

今回は、「古田織部」の弟子である「小堀遠州」の茶室を紹介します。

※「小堀遠州」の本名は、「小堀政一」で、「藤原光道」の代に近江国坂田郡小堀村(現・滋賀県長浜市)に居住してその村名を姓として、「小堀光道」と名乗った。6代後の「小堀正次」は、縁戚であった「浅井氏」に仕えていたが、1573年に「浅井氏」滅亡後は、「羽柴秀吉」の弟「羽柴秀長」の家臣となった。「正一」は、その「正次」の長男として、1579年に生まれた。
1585年に、「羽柴秀長」が郡山城に移封されると、「政一」親子も郡山に移った。
この頃、「秀長」は、「山上宗二」を招聘したり、「千利休」に師事するなどしたことで、郡山は京・堺・奈良と並んで「茶の湯」が盛んな土地となった。小姓だった「政一」は、「秀吉」への給仕を務め、「千利休」や「黒田如水」、そして「長政」父子とも出会い、長い親交を深めた。
「秀長」の死後、跡を嗣いだ「秀保」も亡くなり、1595年に「秀吉」直参となって伏見に移り、ここで「古田織部」を知り茶道を学んだ。
1598年に、「秀吉」が亡くなると、「徳川家康」に仕えた。1609年に、「従五位下遠江守」に叙任された。以後この官名から「小堀遠州」と呼ばれるようになった。

1、金地院の「八窓席」

※「金地院」は、京都府京都市左京区にある南禅寺の塔頭である。応永年間(14世紀末 - 15世紀初頭)に、室町幕府4代将軍足利義持が大業徳基(南禅寺68世)を開山として洛北・鷹ケ峯に創建したと伝えるが、定かではない。1605年に、江戸幕府の幕政に参与して「黒衣の宰相」と呼ばれた崇伝(以心崇伝、金地院崇伝)によって現在地に移された。1619年に、幕府より僧録に任ぜられ、それ以後、幕末まで「金地院住持」が僧録職を務めることとなり、五山十刹以下の禅寺を統括する最高機関となった。

「小堀遠州」が、「金地院崇伝」の依頼を受け、「金地院方丈」北側の書院に接続して、以前からあったものに手を加え、重要文化財三畳台目の茶室「八窓席」を1628年頃までに完成させた。外観は柿葺の片流れ、三畳台目の平面で、亭主の着席する点前座と床の間が並んだ形式となっている。

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床柱が、赤松皮付き、相手柱が櫟の皮付き、そして床框は、黒漆が塗られていて、床の間と点前座との境の壁には墨蹟窓があけられている。点前座は、いわゆる台目構えという形式です。台目切りに炉が切られ、椿の中柱が立てられ、袖壁には下地窓があけられています。

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この茶室の特徴は、点前座の向かい側に開けられた「躙り口」の位置にあり、通常ならば端に寄せて開けられるが、壁の途中に設けて、平天井と化粧屋根裏天井を分ける位置配置してある。

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「千利休」の考案した「躙り口」は、刀を置き、頭を下げ、体を小さくして入る客用に設けられた出入口のことであり平等を表して、「侘び茶」には欠かせない要素のひとつである。しかし、「小堀遠州」は、封建社会の秩序を「茶室」に体現するために、「躙り口」の右左で空間の上下、つまり「貴人座」と「相伴席」に二分し、「茶の湯」の理念と封建秩序をあわせた形式をとった。また、一般的に「躙り口」は、露地から直接上がり込む形式ですが、ここでは「縁」に接して設けられている。

2、孤篷庵の「忘筌」

※「孤篷庵」は、京都府京都市北区紫野にある臨済宗の寺院大徳寺の塔頭である。1612年に、「黒田長政」が創建した。1608年に「龍光院内」に「小堀遠州」が「江月宗玩」を開祖として建立した庵を1643年に現在地に移し、「江雲宗龍」(遠州の実子)が継いだ。その後、1793年の火災により焼失するが、「遠州」を崇敬した大名茶人松江藩主の「松平治郷(不昧)」が古図に基づき再建した。

「孤篷庵」にある茶室「忘筌」は、L字形に構成された十二畳の書院座敷です。L字形にすることで、「相伴席」を組み込んだ形式となっている。北側の三畳部分です。遠州の師である「古田織部」は、敷居と鴨居によって厳密に区分された「相伴席」を表現したが、ここでは緩やかな区分となっている。また点前座と床の間を並べることも遠州の得意とした。

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もっとも注目される部分は縁先の構成です。外壁に面して中敷居の上に障子が建てられ、その下が解放されていて、外部は生け垣で囲われ、茶の湯の庭として必要最小限の手水鉢、燈籠を室内から見せている。

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その軒内部分が露地に相当し、タタキの中に飛石が打たれ、沓脱ぎ石から縁へ上がるように組み立てられてる。中敷居があるため縁への上がり口は、「躙り口」のように頭を下げないと通れないような仕組みになっている。これは、「草庵茶室」の躙り入る方法を書院に応用したものである。

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またこの上がり口の位置は座敷の中央となっており、その左右で空間の上下の意味を変えた平面構成となっている。

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(出典:相賀徹夫編『探訪日本の古寺6 京都1 比叡・洛北』1980年 小学館)

室内の天井は、いわゆる砂摺り天井と呼ばれ、杢目を浮き立たせそれに胡粉を塗った竿縁天井である。点前座と床の間の境部分は、風炉先窓のように吹き抜かれ井桁の格子を組み、下半分を唐紙張りとしている。「炉」は、はじめ台目切りであったが、現在は四畳半切りに構えられている。

今回は、「京都市文化観光資源保護財団」、「探訪日本の古寺6」他を参考に紹介しました。

「小堀遠州の茶室Ⅱ」を次回で紹介します。

☆参考


   ○小堀遠州 綺麗さびの極み ○小堀遠州の美を訪ねて   ○小堀遠州

              

   ○小堀遠州(別冊太陽)   ○探訪日本の古寺6      ○日本の五感

               


   






茶室その3(古田織部の茶室)

今回は、「千利休」の「七哲」のひとり「古田織部」の茶室を紹介します。

※「古田織部」は、本名は「古田重然」であり、1543年に、美濃国本巣郡の山口城主「古田重安」の弟「古田重定」の子として生まれ、、後に伯父「古田重安」の養子となった。1567年に「織田信長」の美濃進駐と共にその「信長」の家臣として仕え、1576年には、山城国乙訓郡上久世荘の代官となった。「信長」死後は、「秀吉」に仕え、1585年に「秀吉」が関白になると、「重然」は、功績を賞され従五位下織部助に任ぜられた。
1582年頃に、「千利休」に弟子入りしたとみられる。1591年に、「秀吉」による「利休」追放で、「古田重然」と「細川忠興」のみが「利休」を見送った。

1、「燕庵」

「燕庵」は、現在京都市下京区の「薮内家」にある。「古田織部」が、大阪の陣に出征するおり、義弟にあたる「藪内家初代剣仲」に与えた茶室と伝えられ、2代「真翁」は、「西本願寺」の茶道師家に迎えられ門前に屋敷を移した時に、「剣仲」屋敷の茶室も移された。その時に茶室を「燕庵」と名づけられた。1864年に兵火によって「藪内家」が、延焼し「燕庵」も失われた。そのため、摂津有馬の「武田儀右衛門」が、忠実に再現した茶室を1867年に移築したのが、現在の「燕庵」である。

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「燕庵」は、茅葺き入母屋造で、南東隅の土間庇に面して躙口をあけている。

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「燕庵」は、茅葺屋根の草庵茶室であり、書院書院様式を取り入れながら、貴人を迎える形式をそなえている。

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三畳の客座を挟んで点前座と相伴席を配している。客座との境に二枚襖を隔てて相伴席を付設した点に「燕庵」の特徴である。「燕庵」は、「利休」の開口部の少ない茶室と違い、窓が多いのが特色のひとつであり、点前座勝手付きの色紙窓以下全部で10窓を数える。

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墨蹟窓に花入れの釘を打つこと、雲雀棚とよばれる上棚の長い釣棚の形式などの「織部」の作意を伝えている。

2、八窓庵(含翆亭)

「八窓庵」は、奈良の「奈良公園」内にある「奈良国立博物館」の中庭にある。「八窓庵」は、もとは「興福寺」の「大乗院」庭内にあった茶室で、「含翠亭」ともいい、江戸時代中期に建てられた。「古田織部」好みの「多窓式茶室」として有名で、この茶室と「興福寺」塔頭「慈眼院」の「六窓庵 」(現所在東京国立博物館)、「東大寺」塔頭「四聖坊」の「隠岐録」(東京へ移建の後、戦災で消失)と合わせて「大和の三茶室」といわれた。
「八窓庵」は、地元に永久保存されることを望む奈良在住の篤志家数名の努力によって当時の「帝国奈良博物館」へ献納されたもので、1892年に移築された。

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様式は、四畳台目下座床で草庵風の入母屋造り茅葺で、天井は床前から点前座にかけて蒲天井とし、残りは化粧屋根裏になっている。

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「千利休」の茶室と異なり、違い窓が多くあり、茶室内部から8つの窓が見えるところから「八窓庵」と呼ばれている。

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「利休」の「侘び茶」の景観を抑え、内面の美を追求した狭い茶室に比べ、「織部」は視覚的な美を追及をし、窓を多く設けて暗くて陰気な雰囲気を解消した茶室を求めた。

今回は、「Wikipedia」、「藪内の茶」、「奈良博物館」他を参考に紹介しました。

☆参考


○織部も親しんだ茶の魅力     ○古田織部の世界        ○織部展(400周年忌)


             





posted by Bokusai at 14:30Comment(0)茶室

茶室その2(村田珠光から千利休の茶室)

今回は、「千利休」で完成した侘び茶の「茶室」までの流れを紹介します。大きくは、「侘び茶」の祖とされている「村田珠光」から始まって、「侘敷」を考案した「武野紹鴎」を経て、「侘び茶」の完成者と言われる「千利休」までの「茶室」である。あくまでも、「千利休」の求めた「侘び茶」の「茶室」のことである。その後も、「千利休」の影響を受けた「古田織部」、「小堀遠州」、「織田有楽」、「金森宗和」等の茶室が作られ、変化をしているが、「千利休」の求めた「茶室」ではない。

1、村田珠光の茶室

「村田珠光」は、一般に「侘び茶」の祖とされていて、「村田珠光」の「茶室」を知るには、「南方録」の「東大寺四聖坊数寄屋図」という古図に、珠光が好んだ「茶室」の写しが記録されている。それによれば、この四畳半には一間の床、檜の角柱、襖2枚、障子3枚(「明り障子三本」)があり、天井は高さ7尺1寸の「鏡天井」、壁は「張付」即ち「白い鳥子紙」を張った書院風のものであったと推定される。ただし、外観は「杮葺宝形造」の小庵であったとするから山居の佇まいを見せていたと想像される。「村田珠光」の「茶室」を知るもう一つの手掛かりが、「村田珠光」が京都に定住した後に、自らの法跡である「称名寺」に一庵を設けて「獨盧庵」となずけた。しかし、1704年に焼失し、その後再建されたが、再び1762年の「宝暦の大火」で焼失した。現存する建物は、1800年頃に第24代「鸞空上人」が再興したものである。(下の写真)


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「茶席」の中は、移動式の敷居と壁および障子によって三畳と一畳半に仕切れるように工夫されていて、四畳半の茶席としても、三畳の茶席としても使用できるようである。造作は、他の茶席には見られない珍らしいものである。

2、武野招鷗の茶室

「武野紹鷗」の茶室は、「山上宗二記」に茶室「四畳半」が平面図入りで紹介されている。その図の注記によれば、北向きで、檜柱で、壁は白の張付壁、天井は野根板で、一間床を設けていた。床框は黒く塗った栗の木とあり、障子を立てたと考えられる茶室の正面には「面ノ坪ノ内」と「簀子縁」があり、西側の「脇ノ坪ノ内」から幅2尺ほどの片引きの建具を開けて「簀子縁」の端に上がり、席入りする形であったことがわかる。(下の図)


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この「武野紹鷗」の茶室「四畳半」は北向きで窓がなく、光は北の建具側からしか入らなかった。また、入口の鴨居が通常よりも少し低く設置されており、縁に上がる戸口が低かったことと併せ、茶室の入口が俗世間を離れ、非日常的空間への入口であることを象徴している。

「武野紹鴎」は、4畳半茶室よりも小さい3畳半や2畳半の茶室を考案して「侘敷(わひしき)」と称し、4畳半以上の茶室を「寂敷(さひしき)」と区別して称したが、後に「千利休」は「侘敷」と「寂敷」との区別を曖昧にしたことから、「わび・さび」の意味合いにおいても、深い混乱を生じさせる事になった。

「武野紹鴎」の茶室は、現存していないが、京都洛北紫野の「大徳寺紅梅院」に紹鴎好みと言われる茶室がある。(下の写真)


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「昨夢軒」は、北側中央に位置する四畳半下座床の茶室で、西と南は襖4枚で隣室と、北は腰高障子2枚で縁側へ、そして東は北寄りに襖2枚で隣室と繋がる構成で、各方向に行き来が出来ますが、北の障子は貴人口となり、そして東の襖は茶道口となります。出入り口を北側におくのは「武野紹鴎」の手法でもある。江戸時代に作られたようである。

3、千利休の茶室

「山上宗二記」に、残された指図から、「千利休」の茶室(大坂屋敷にあった長三畳台目の茶室)は、「脇ノ手水かまへ」から「くくりきと」(潜り木戸)を通って直接席入りする形になっており、「武野紹鷗」の四畳半にあった縁が失われて土間庇に代わっている。縁を解体し、入口をくぐりに変え、土間庇という屋内と屋外をつなぐ中間領域が形成され、露地の飛び石がそのなかに深く進入して、にじり口で畳と庭が直結されるようにした。こうして露地と茶室が一体化した茶の湯の場が成立することになった。この「手水構」と「潜り木戸」は、それぞれ蹲踞(つくばい)と躙口の初源的なものであったと思われる。「千利休」は、茶道具も唐物とともに和物を重視し、楽長次郎に侘びた茶碗を作らせたり、自ら竹を斬って花入や茶杓を作るなど、侘びの美学を追求した。



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「山上宗二記」によれば、「侘び茶」の精神を突き詰め、それまでは、名物を一つも持たぬ侘び茶人の間でしか行われなかった「二畳」、「三畳」の小間を採り入れた。さらに、採光のための唯一の開口部であった縁の引き違い障子を排して壁として、その壁に下地窓、連子窓や躙口をあけて、二畳の茶室を造った。壁も張付などを施さない土壁で、仕上げ塗りをしない荒壁であり、時には藁苆を見せることもした。室面積の狭小化に合わせて天井高も頭がつかえるほど低くし、天井に高低差をつけて、材料も杉板、網代、化粧屋根裏など工夫をこらして納めた。

「千利休」の茶室も現存するものはないと言われている中で、「千利休」が造ったと言われている京都山崎の「妙喜庵」の「待庵」がある。日本最古の茶室建造物であると同時に、「千利休」作と信じうる唯一現存する「茶室」である。現在一般化している、「躙り口」が設けられた「小間の茶室」の原型、かつ「数奇屋建築」の原型とされている。寺伝には、1582年の「山崎の戦い」のおり「羽柴秀吉」の陣中に「千利休」によって建てられた「二畳隅炉の茶室」を解体し、移築したとある。しかし、1606年に描かれた「宝積寺絵図」には、現在の「妙喜庵」の位置あたりに「かこひ」の書き込みがあり、このときにはすでに現在地に移築されていたものと考えられている。同図には、「妙喜庵」の西方、現在の島本町の「宗鑑旧居跡」付近に「宗鑑やしき」そして「利休」の書き込みもあり、利休がこの付近に住んでいたことを伺わせる。したがって「待庵」はこの「利休屋敷」から移築されたとも考えられる。

「待庵」の「茶室」は、切妻造杮葺きで、書院の南側に接して建っていてる。


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「茶席」は、二畳、「次の間」と「勝手の間」を含んだ全体の広さが四畳半大という、狭小な空間である。南東の隅に「躙り口」を開け、「躙り口」から見た正面に「床」を設けてある。室内の壁は黒ずんだ荒壁仕上げで、藁すさの見える草庵風となっている。「床」は、4尺幅で、隅、天井とも柱や廻り縁が表面に見えないように土で塗りまわした「室床」である。天井高は5尺2寸ほどで、一般的な掛け軸は掛けられないほど低い高さである。これは「千利休」の意図というより屋根の勾配に制約されたためである。床柱は、杉の細い丸太、床框は、桐材で3つの節がある。室内の東壁には、2箇所の下地窓、南壁には、連子窓を開けている。

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「日々徒然」からの

下地窓の小舞には葭が皮付きのまま使用されている。炉は、「躙り口」から見て部屋の左奥に隅切りとしている。この炉に接した北西隅の柱も、壁を塗り回して隠しており、これは「室床」とともに2畳の室内を少しでも広く見せる工夫と思われる。天井は、わずか2畳の広さながら、3つの部分に分かれている。床の間前の天井は、床の間の格を示して平天井、炉のある点前座側は、それに直交する平天井とし、「躙り口」の部分(は、東から西へと高くなる掛け込みの「化粧屋根裏」となっている。二つの平天井を分ける南北に渡された桁材の一方は、床柱が支えていて、この桁材が手前座と客座の掛け込み天井の境をも区切っている。平天井の竿縁や化粧屋根裏の垂木などには、竹が使用されており、障子の桟にも竹が使われている。このように竹材の多用が目立ち、下地窓、荒壁の採用と合わせ、当時の民家の影響を感じさせる。二畳茶室の西隣には、襖を隔てて1畳に幅8寸ほどの板敷きを添えた「次の間」が設けられ、続けて「次の間」の北側に一畳の「勝手の間」がある。

今回は、「Wikipedia」他を参考に紹介しました。

☆参考

○古典に学ぶ茶室の設計


○藤森照信の茶室学


○妙喜庵茶室(待庵)


○藤森先生茶室指南









posted by Bokusai at 17:06Comment(0)茶室